@ikanoboshi
最終更新日:2023年12月20日
この文章は『日本人が築いてきたもの壊してきたもの』「第1章 米軍戦車と東京タワー」を中心に、他の資料や個人的見解を交えてまとめたものです。
軍用トラックの払い下げ
第二次世界大戦終結後、アジア各地から大量の破損・故障した軍用トラックが日本に集められた。それらは修理後、親米諸国に供給されたほか、一部は輸送力が不足していた日本国内のバス事業者に払い下げられた。車種はGMC CCKW/DUKWやダッジ WC等で、払い下げ先は東京都交通局や大阪市交通局など大都市の公営事業者を中心に、民間事業者も含まれた。各事業者でバスボディに架装され、1950年代後半頃まで使用された。
米軍戦車の払い下げ
1953年7月27日、朝鮮戦争の休戦協定が締結された。1954年頃から実戦で使用された米軍戦車が日本に後送されてきた。当時、東京都港区芝浦の入札所で米軍の軍需物資の民間への払い下げが行われており、1956年には戦車数百輌が払い下げられた。東京製鐵の窓口問屋である尾関商店(江東区亀戸)が「M4とM47※1」の2種類、総数約90輌を落札した。又、尾関商店よりも前に、木下産商も約200輌の戦車を落札した。
※1『日本人が築いてきたもの壊してきたもの』の記述による。M47は朝鮮戦争末期に少数が韓国に送られたが、実戦投入されることは無かった。 当時の写真 で解体作業を請け負った髙野工業所社長の髙野静雄氏と共に写っている戦車がM46であることから、実際に解体されたのはM46とみられる。尚、1954年当時の所沢兵器分廠の写真ではM7J1自走砲とM36戦車駆逐車が集積されているのが確認出来る。
供与戦車との関係
1952年、M4A3(76)W HVSSの米軍から警察予備隊への供与が開始された。大多数は自衛隊が発足した1954年度と翌1955年度に集中しており、朝鮮戦争休戦に伴い、中古戦車が日本に大量に入ってきた時期と重なる。使用可能なものは東京兵器補給廠(Tokyo Ordnance Depot)等で再整備を行なった上で供与車輛に回され、残りは解体処分されたものと推察する。
M4A3(76)W HVSS 日本への供与数
| 年度 | 供与数 |
|---|---|
| 昭和27年度(1952年度) | 10輌 |
| 昭和28年度(1953年度) | 10輌 |
| 昭和29年度(1954年度) | 177輌 |
| 昭和30年度(1955年度) | 169輌 |
| 計 | 366輌 |
戦車の解体作業
払い下げられた米軍戦車はトラックとは異なり、民生利用することは許されず※2、軍施設内でスクラップにしてから運び出す取り決めとなっていた。尾関商店と木下産商が落札した戦車の解体は、髙野工業所(墨田区石原)が請け負った。作業現場の所沢兵器廠(現・所沢通信基地 埼玉県所沢市)には、戦車、装甲車、トラック等の軍用車輛が見渡す限りに並んでいた。関東一円から職人約20人が集まり、手伝いの作業員約20人と合わせ、総勢40人余りが現地の旅館に泊まり込んで作業を行った※3。車内が狭いため、職人一人で戦車1輌分全体を担当した。ほぼガスバーナーのみの手作業で解体し、巨大なエンジンだけは米軍のクレーンを借りて引き上げた。腕の良い職人は3日で2輌ほど解体したという。作業手順は以下のようなものだった。
(1)砲塔を後方に向けて主砲を切断。
(2)エンジンデッキパネルを外し、クレーンでエンジンを取り出す。
(3)車体の底板を抜く。
(4)上部から順に部品を炉前(平炉で溶かせる70×100cm程度の大きさ)に切断して穴の開いた車体の底に落とす。
(5)履帯と転輪を外し、ゴム部分を燃やす※4。
(6)出来上がった鉄屑の山をトラックに積んで運び出す。
※2 旧日本軍の九七式中戦車や九五式軽戦車は砲塔を撤去してブルドーザーや牽引車として再生された。ブルドーザーに改造された九五式軽戦車は現存している。
※3 米軍戦車の解体時期・期間については『日本人が築いてきたもの壊してきたもの』では「1957~58年・約1年」、『讀賣新聞』では「1956年・約半年」と記述が食い違っている。東京製鐵会長の池谷太郎氏は納入先から「(戦車から再利用された)この形鋼は東京タワーと東京都庁の建設に使うんだそうですよ」と説明されたという。東京都庁舎(旧庁舎)は1957年2月22日に落成していることから、1956年中には解体作業が行われていたものと考えられる。
※4 ゴムは不要なため基地の外れで焼却処分していたところ、「病院のサンダルにするのでそのゴムを売って欲しい」という人が来たという。
1954年9月29日、所沢兵器分廠(1955年2月、所沢兵器廠に改称)に集積されたM7J1自走砲とM36戦車駆逐車。約2年後、この地で戦車の解体作業が行われた。
戦車のスクラップの再利用
尾関商店が落札した約90輌分の戦車のスクラップ(総重量3千数百t)は、所沢からトラックで東京製鐵千住工場(足立区千住)に運ばれた※5。同工場の平炉で溶かされ、形鋼(アングル)に加工された。鉄材不足の時代にあって、米軍戦車の装甲は上質なものだったため、東京タワーの建材として使用されることとなった。
※5 一方、木下産商が落札した約200輌分のスクラップの用途は定かではない。同社は八幡製鐵・富士製鐵(共に現・日本製鐵)の指定問屋で日本最大の鉄鉱石卸商社に急成長したが、繊維部門への進出が裏目となり、1965年に三井物産に吸収合併された。
『あたらしい憲法のはなし』より、戦争放棄の挿絵。溶鉱炉で戦車、軍用機、大砲等が溶かされ、電車、船、消防車、ビル、鉄塔として再生される様子を描いている。同書は1947年に新制中学校1年生用の社会科教科書として発行。朝鮮戦争勃発により1950年には副読本に格下げされ、1951年からは使用されなくなった。
東京タワー
東京タワーが建設されるまで、放送事業者は各地に自前の電波塔を建て、放送を行っていた。アンテナの指向性、受信範囲の限界、景観の悪化等が問題となり、巨大な総合電波塔を東京都港区の芝公園内に建設することとなった。建築主は日本電波塔(現・TOKYO TOWER)、施工は竹中工務店。1957年6月29日着工、1958年12月23日完成。全高333mでパリのエッフェル塔(312m)を越え、当時世界一高い塔だった。
東京タワーの鉄骨
東京タワーの鉄骨は、地上120mの大展望台(現名称・メインデッキ)までは松尾橋梁(現・IHI)、それより上は新三菱重工業(現・三菱重工業)が製作した。戦車を再利用した東京製鐵の形鋼は新三菱重工で加工され、大展望台より上の細い鉄骨に使用された※6。東京タワーの総重量約3600tの内、1000~1500t程度を占めるとされる。
※6 太い鉄骨には高炉メーカーの鋼材(鉄鉱石を溶かして製造したもの)が使用された。尚、戦車を再利用した鉄骨は「特別展望台(地上224m)より上に使用された」との記述も一部に見受けられるが、誤りである。建設当時の関係者は「大展望台(地上120m)より上に使用された」と証言している。特別展望台(現名称・トップデッキ)は元の作業台を改修したもので、1967年7月28日に一般公開された。
1961年頃の東京タワー(全高333m)。地上120mに位置する八角形の構造物が大展望台。地上224mの円形の構造物が後に特別展望台となる作業台。
後日談
戦車のスクラップを平炉で溶かした際、シャフトの軸受に銀が使われていることが判った※。銀は約10kg採れ、鍋などに加工して得意先に配ったという。
※7 米軍戦車の重要部品の軸受にはスウェーデンのSKF社の部品が使用されていた。
東京タワーの鉄骨に朝鮮戦争時の米軍戦車が再利用されていることは長い間、一部の関係者以外には知られていなかった。戦車を解体した髙野氏も1985年頃に東京製鐵の池谷氏から初めて聞かされたという。髙野氏を取材したNHK特集『俺は天下の解体男』(1988年1月31日放送)でこの秘話が紹介されたことがきっかけとなり、以後、書籍、新聞、テレビ、インターネット等で繰り返し取り上げられ、広く知られるようになった模様である。